明和町の紹介
三重県多気郡明和町は、松阪市と伊勢市に挟まれた、人口2万3千人ほどの町です。
松阪市は言わずと知れた「松阪牛」で有名。また伊勢市は「伊勢神宮」があることで有名です。
明和町はというと・・・あまり広くは知られていないようです。
実は明和町は私の母方の里であり、子供の頃から春夏冬の長い休みになると祖父母に会いに行き、長い時間滞在していました。叔父叔母、従姉妹もいて、よく一緒に遊んでくれました。
いまは祖父母も叔父叔母も他界しており、従姉妹とも会わなくなってしまいましたが、それでも私にとって明和町は「第二のふるさと」といえる町です。
今でも年に数回、お墓参りのために明和町を訪れます。
明和町を歩いていると、都心で暮らす私にとって空が広く、あたりを見渡すと、のどかな景色が広がっています。挨拶して下さる人たちもいらっしゃって、なんか癒されるところです。
明和町の知名度はいまひとつのような気がしますが、実は平成27年4月24日に日本遺産に認定された、「祈る皇女斎王のみやこ 斎宮」のあった場所なのです。
斎王とは 斎宮とは
「斎王」とか「斎宮」とか聞き慣れない言葉が出てきたと思われた方もおられると思います。
斎王とは
斎王(さいおう)…それは、天皇に代わって伊勢神宮の天照大神に仕えるために選ばれた、未婚の皇族女性のことである。歴史に見られる斎王制度は、天武二年(674)、壬申(じんしん)の乱に勝利した天武天皇が、勝利を祈願した天照大神に感謝し、大来皇女(おおくのひめみこ)を神に仕える御杖代(みつえしろ)として伊勢に遣わしたことに始まる。
以来、斎王制度は660年以上にわたって続き、60人以上の斎王が存在した。伝説は、伊勢に天照大神を祀った倭姫命(やまとひめのみこと)など、さらに多くの斎王の物語を伝える。
制度が確立して以降の斎王は、卜定(ぼくじょう)という占いで選ばれ、斎王群行と呼ばれる五泊六日の旅を経て伊勢へと赴いた。その任が解かれるのは、主に天皇が代わったときのみ。年に三度、伊勢神宮に赴く以外は、一年のほとんどを斎宮で過ごし、神々を祀る日々を送っていた。また、神に仕える身ゆえに恋をすることも許されず、伝説に語られる斎王の中には己の命を絶って身の潔白を証明した哀しい斎王や、恋ゆえに斎王を解任されたり、恋人と引き裂かれたりした斎王もいたのである…。
斎宮とは
竹の都 斎宮(さいくう)。それは、天皇に代わり、伊勢神宮の天照大神に仕える斎王の住まう所であった。そこは碁盤の目状に道路が走り、木々が植えられ、伊勢神宮の社殿と同じく清楚な建物が100棟以上も建ち並ぶ整然とした都市で、そこには斎宮寮を運営する官人や斎王に仕える女官、雑用係などあわせて500人以上もの人々が起居し、当時の地方都市としては『遠の朝廷(とおのみかど)』と呼ばれた九州の太宰府に次ぐ規模を持っていたのである。また、斎王を中心とした都市であることから、斎宮では貝合や和歌など都ぶりな遊びが催された。また、都との往来もあり、近隣の国からさまざまな物資が集まるこの地方の文化の拠点でもあったと考えられる。
斎宮跡の規模は東西およそ2キロメートル、南北およそ700メートル。これを、日本の都であった平城京・平安京や、斎宮が栄えた時代とほぼ同時代の地方都市である大宰府と比べると上図のようになります。平城京や平安京はもちろん日本の『首都』であり『遠の朝廷』と呼ばれた太宰府は、都から遠い九州を統治し、大陸に対する防衛の役目を持つ『小政府』のようなものです。一方、斎宮は伊勢神宮の天照大神に仕える斎王のためだけの都。斎王の在任中のみ構成される斎宮寮には13の司があり、120人以上の役人をはじめ、斎王の世話をする女官、雑用係を会わせて500人を越える人々がいました。これは、当時の諸国を治める国府よりも遙かに大きな規模でした。
斎王の代が代わるごとに新しく造営された斎宮は「延喜式」等の記録や発掘の結果によると、碁盤の目状に道路が走り、大垣や溝、植樹が整備された整然とした都市であったことがわかってきました。そしてその内部は、斎王とその世話をする人々が暮らす内院、斎王に関する事務を処理する役所である斎宮寮の庁舎がある中院、官舎や官人の居宅が並ぶ下院に別れ、総数100棟以上の建物が建ち並んでいたと考えられています。
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